【目標】優秀な卒業論文を書く

ある著書との出会い

私が博士課程在学中に出版された「これから論文を書く若者のために(酒井聡樹著)」に以下のような一説がありました。記憶が曖昧なので記述はかなり不正確ですが、本質的な意味合いはそのままのはずです・・・。

「そこに穴がないから穴を掘った」には何ら意義はなく、「そこに埋蔵金があるという情報を入手したので穴を掘った」には大きな意義がある。これと同様で、「これまで研究されていないから研究した」には何ら意義はなく、「それを研究すれば謎を解明(問題を解決)できるはずなので研究した」には大きな意義がある。

私は酒井先生のこの著書を読んで衝撃を受けました。研究者として独り立ちした現在でも、基本的には毎回この指針に沿って論文を執筆しています。

しかし、普段から研究のために論文を読でいると、

「誰も研究してないって言うけど、だから何?」

「誰も研究してないって言うけど、それを研究することに何の意味があるの?」

「何でそんな研究をしたのか意味が分からんな~」

というように、多くの「知りたがり」人種から「穴がないから穴を掘った論文」という烙印を押されかねない論文を多く見受けます。

宝があるからこそ

「穴がないから穴を掘った論文」と、「金塊が埋まっているはずだから穴を掘った論文」とでは、その内容に雲泥の差が生じることを容易に想像できると思います。

また「この論文は金塊を掘りだそうとしているんだ」と主張されれば、「知りたがり」人種の心をくすぐる可能性が高いことも容易に想像できるでしょう。

この「金塊が埋まっているはず」こそが仮説です。「仮説を検証する」とは「埋蔵金を掘り出す」行為に他なりません。

掘ってみなければわからないが、これまでに集めた情報を素直に読み解けば、ここに埋蔵金があると判断できる。だから「穴を掘るんだ」ということです。

「これまでに集めた情報」とは、既往文献の調査で明らかになった「研究の最前線」を意味します。

「素直に読み解けば」とは、最前線の既往文献どうしを照らし合わせて、それぞれの主張を一つのストーリーでつなぎ合わせていく行為を指します。

そのストーリーの先に見えてくる仮想的な結論こそが「仮説」という訳です。

仮説で新規性を示す

実験や調査をしてみなければわからないが、これまでに読み込んだ既往文献を素直に読み解けば、実験や調査をすることで新しい知見を導き出すことができるはず。だから「実験や調査をするんだ」ということです。

つまり「これまで誰もやっていないからやるんだ」では駄目だということです。

私の専門分野(作物学)の事例で説明すれば・・・・・

「これまで誰も塩コショウを振りかけてイネの生育反応を観察したことがないから『 塩コショウ散布がイネの生育に与える影響』を研究するんだ」

と主張するようなものです。

ちなみに、私たちはこの手の研究を「ぶっかけ実験」と呼んでいます。誰もやっていなければ何でもいいので、とにかく何かをぶっかけて反応をみるという研究です。この手の研究を避けるべきだという自戒の念を込めて「ぶっかけ実験」という品のない呼び方をしています。

科学に貢献できるのか?

既往文献を素直に読み解くことで「イネに塩コショウを振りかける」ことの正当性を説明できれば良いのですが、私の知る限り、それは相当に難しいはずです。

「ぶっかけ実験」を報告する論文は、既往文献に基づく正当性を主張できないので、「これまで誰もやっていないから塩コショウを散布する」と主張するしかないのです。

「ぶっかけ実験」を報告する論文は少なからず存在します。そうした論文は論外ですが、実は「新しい知見」を提示しているにも拘らず「これまで誰もやっていないからやるんだ」と主張してしまうことにより、あたかも 「ぶっかけ実験」 をしているかのような印象を与えてしまう「勿体ない」論文が数多く存在します。

なぜ、そうした「勿体ない」論文が生まれてしまうのでしょうか?

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