本学位論文は,以下4報の投稿論文を元に執筆しました.
関谷信人,矢野勝也(2002)水素の安定同位体自然存在比から評価した植物が利用する水資源の由来.根の研究 11:35-42.
【要旨】
21世紀を迎えた今日も尚,開発途上国を中心とした多くの地域で食料不足が深刻な問題となっている.その開発途上国では,全耕地面積の3分の1が乾燥・半乾燥地域に区分され,そこで栽培される作物は常に水不足による生産量低下の危険性に曝されている.また,乾燥ストレスは,そうした地域にとどまらず,世界的な農業生産性低下の主要な要因である.さらに,今後20年で農業生産に利用できる水量は激減し,乾燥・半乾燥地域における水不足は危機的な状況になる事が予測されている.したがって,限られた水供給量の中で作物生産性を向上させる研究が非常に重要である.
自然条件下では,土壌の水ポテンシャルは下層土壌ほど高くなる.深い根系を発達させることが,乾燥条件下での植物生育に有利と考えられているのは,この事実に基づいている.しかし,根が水資源に接触することだけでは,必ずしも植物の水状態を改善しないと言う指摘もあり,深層まで発達した根が水吸収機能をどれだけ発揮できるのか明らかではない.特に,圃場に生育する作物根への水流入の実態を把握することは技術的に困難であった.
ところが,この十年間に,植物の導管水と周辺環境の水に含まれる水素の安定同位体自然存在比(D/H,δD)を測定することで,野外の植物が利用する水資源を特定することが可能となってきた.塩生植物を例外として,植物は水分子の同位体(DHO・D2O・H2O)を分別して吸収することはない.したがって,同位体分別の原因となる蒸発の影響を受けていない茎や根から回収した導管水のδD値は,その植物が獲得した水資源のδD値を反映する.この導管水δD値を周辺環境の水資源δD値と比較すれば,その植物が依存する水資源を特定することが可能となる.ただし,各水資源δD値に大きな差が存在する事が前提となる.木本植物は大きな根系を発達させるため,利用可能な水資源も幅広く,それら水資源のδD値も大きく異なることから,δD解析は主に森林生態系で利用されてきた.ところが耕地生態系では,作物根系のサイズが小さく根域内における土壌水分δD値の変動は小さいと考えられていたため,これまでの利用は皆無であった.
そこで第1章では,耕地生態系で栽培した作物種にこの解析法を適用し,作物における水資源の季節変動を調査できるか検証した.2000年11月~2001年4月に掛けて,ザンビア共和国国立灌漑研究所の試験圃場にキマメ(Cajanus cajan)とセスバニア (Sesbania sesban)を栽培した.両マメ科作物から出液により採取した導管水と,降水・地下水のδD値を安定同位体比質量分析計にて測定した.
試験期間を通じて降水δD値は大きく変動したのに対して,地下水δD値はほぼ一定であった.両マメ科作物から採取した導管水δD値も大きく変動し,降水の影響が示唆された.両マメ科作物の主根は,地下水が存在する土壌表層下2mまで同様に到達していた.しかし,キマメに比べてセスバニアの導管水δD値は常に地下水δD値に近かった.これは,セスバニアの方が地下水により強く依存していることを示している.ところが乾期に入ると,地下水に対する依存度が低いキマメにおいてのみ出液を採取することができた.おそらく,セスバニアに比べてキマメは乾燥した表層土壌から積極的に吸水する能力が高く,キマメ導管水の中で地下水の割合が低下していた可能性が示唆された.このように,導管水のδD解析は,耕地生態系における作物根系の水吸収機能を理解する上で有効であることを明らかにした.
灌漑は,乾燥条件下における作物生産の向上に,最も有効な方法である.しかし,乾燥・半乾燥地域では,インフラ整備が不十分であるため,耕地面積の70%以上が未だ天水に依存している.作物による灌漑水利用効率は,大規模灌漑で40~75%であるが,スプリンクラーや点滴灌漑のような小規模灌漑は75~90%に増加すると指摘されている.しかし,小規模灌漑は単位土地面積当たりのコストが大規模灌漑の3倍も掛かってしまうことから,両地域における導入は難しい.したがって,より低コストで灌漑水利用効率の高い方法を検討する必要がある.そこで,第2章では,これまでの方法に代わる新たな灌漑方法として,Hydraulic lift現象の活用を試みた.
水ポテンシャルの高い土層から低い土層に向かって,根系を介して早い速度で水が移動する現象をHydraulic liftと呼ぶ.間作体系に深い根系を発達させる植物を導入すれば,Hydraulic liftにより深層土壌の水を随伴作物に供給させることが可能になると予想した.この可能性を検証するため,ザンビア共和国国立灌漑研究所の試験圃場にて,地下水に到達したキマメとセスバニアの隣にトウモロコシ(Zea mays)を栽培した.もしHydraulic liftが発生して,キマメやセスバニアが地下水をトウモロコシへ供給できたならば,トウモロコシの導管水δD値は地下水δD値に近付くはずである.しかも,この関連性はキマメあるいはセスバニアとトウモロコシとの距離に依存するはずである.結果として,キマメに隣接したトウモロコシの導管水δD値はキマメからの距離に応じて有意に変動し,近い距離にあるトウモロコシの導管水δD値は地下水のδD値に近い値を示した.しかし,そのような距離に依存した導管水δD値の変化は,セスバニアに隣接して栽培したトウモロコシでは確認できなかった.
この結果をさらに検証するため,キマメ-トウモロコシの組み合わせについて,ガラス室で再現試験を行った.根箱を縦3層に分割し中間層を空間にして,両植物を生育させた.キマメの根系については,D2Oを注入した下層まで到達させたのに対して,トウモロコシの根系は上層のみに制限した.D2Oを注入直後,自然存在比を上回るレベルのD濃度がトウモロコシ導管水から検出された.このことから,キマメは下層から吸い上げた水をトウモロコシへ受け渡している事実を確認することができた.さらに,キマメに対して遮光処理を施すと,キマメからトウモロコシへの水供給が促進されることも明らかにした.以上の結果から,少なくともキマメは深層土壌の水をHydraulic liftにより隣接するトウモロコシへ供給する能力を持ち,そのようなスプリンクラー機能(水を汲み上げ周辺植物に受け渡す機能)は,深根性植物のHydraulic liftを引き起こす蒸散の抑制を通して制御可能であることを実証した.
第1章で,キマメとセスバニアは同様に地下水へアクセスしたにも拘わらず,乾期においてキマメのみ出液を滲出した.さらに第2章で,キマメはトウモロコシへ地下水供給したのに対して,セスバニアでは地下水供給現象を確認できなかった.これらの事実から,セスバニアが深層に発達させた根は,キマメに比べて水吸収能が劣る可能性が示唆された.そこで,第3章では,この可能性をより詳細に調査するため,乾いた上層土壌と湛水した下層土壌に分かれた2層円筒土壌に両マメ科作物を栽培する実験を行った.ある一定の蒸散をしている条件下では,キマメの根表面積あたり水流入速度は,上層土壌よりも下層土壌で高かった.これに対してセスバニアの水流入速度は,より多くの水がある下層土壌よりも乾いた上層土壌で高かった.このことからセスバニアでは,下層土壌に発達した根で高い通水抵抗を持つことが示唆された.セスバニア根系における通水抵抗の原因を調査するため根の横断切片を観察したところ,セスバニアが下層土壌に発達させた根のみに通気組織が発達していた.また,キマメ根系では通気組織が全く観察されなかった.このことから,通気組織発達の有無が通水抵抗の原因であると示唆された.セスバニアは表層土壌での乾燥が進行すると落葉により葉面積を減少させたが,逆にキマメは新しく出葉させて葉面積を回復させた.このことから,落葉による葉面積の減少もセスバニアの水吸収能がキマメよりも劣る要因であると考えられる.
セスバニアにおける落葉の原因を調査するため,ポット土壌に両作物を栽培し土壌水分欠乏に対する気孔の反応を葉温の変化で調査した.すると,キマメは水分欠乏により素早く気孔を閉鎖するのに対して,セスバニアは水分欠乏でも気孔を開き続けることが明らかとなった.このことから,おそらくセスバニアは表層土壌での乾燥が進行しても気孔が閉鎖せず,枯死を避けるために落葉させたと考えられた.以上から,通気組織の発達と落葉の結果,セスバニアでは深層に発達した根の水吸収能力がキマメに比べて劣ることが明らかとなった.
以上の結果から,δD解析は森林生態系のみならず,よりスケールの小さい農業生態系においても適用可能であることが分かり,作物の水獲得様式の季節変動,深層に発達した根の水吸収能,そしてスプリンクラー機能としてのHydraulic lift現象の有無を検出できることを明らかにした.本研究に供試したキマメとセスバニアでは,深根の水獲得能に差異が見出された.その原因として,不均一な土壌水分環境に対する根の内部構造的反応の違いをあげることができ,おそらく水分欠乏に対する気孔反応の違いも起因しているであろう.また,本研究は,Hydraulic liftを小規模灌漑技術として利用可能であることを示すと同時に,遮光処理によってその機能を制御できる可能性も示した.